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2009年12月1日火曜日

「秋葉原無差別殺傷」犯人の手紙から考えたこと

先月11日にマスコミ公開された、秋葉原無差別殺傷犯人の加藤智大被告から被害者にあてられた手紙

批判的に見れば、まだきちんと反省も出来ないのか!という意見を持たれた方もいると思うが、
自分には、現実世界のリアリティーが欠けた中で、自分本来の感情や考え方を取り戻そうとしている姿を感じた。
そしてそこにはある種の誠意を感じる事が出来た。

手紙の内容からは自分自身の感情や考え方を抑圧しつづけた結果、それらを見失った一人の人間がそのことでどう苦しんでいるかということが見て取れる。

また、自分自身の感情や考え方を自分で感じられることができないほど押させるのは、周りが本当の自分をしると自分は攻撃される、批判されるというおそれがあるからだと思うが。

そんな自分を正直にさらけ出しているのはそれなりに自分に向かい合おうとした結果だと思う。

この犯人が、一生の間に自分が感じていることや考えを認識できるようになるのかどうかはわからない。
いまはそのスタート地点にたっただけだと思う。


実は、この問題は、この犯人だけでなく世の中の多くの人にも当てはまると思っている。
多かれ少なかれ普通の人は、自分が他人にどう思われるかを気にして、自分の感情や考え方をある程度見失っている部分があると思う。
潜在的にこの犯人のような精神状態の人はたくさんいるように思う。

そして、その程度は人それぞれだが、アーティストしてやっていくは不十分なほどその部分が失われている人も多い。


自分も例外ではなく、アーティスト的な面が失われるほどに自分の本来の感情を見失う傾向があると思っている。

20歳のころに、仕事での人間関係にうまく適用できず、また上司も変な人だったので、関係に疲れ就職して1年で会社を辞めたことがある。
その後1年ほど自宅で通信教育をし、それがきっかけである会社に就職することができた。

しかし目指していた工業デザインではなかった。
そのときに思ったのは、自分の創造的な面はすべていままで本などでみたことの受け売り、
自分の心の底に起源を持ち、自分から発信できる創造的な面を持っていないのではない。
自ら主張できるデザインなど何もないのではないかという疑念だった。

それを解決するためにとった手段は、
1)より多くの物に触れる。
2)すなおに感じるままに感じる。
3)感じたことから何か発想したらそれを楽しむ。
4)感じたこと、考えたことを自己批判しない。
という手段だった。

暇があれば近くの山に行った。
朝早くいって人気のない山を散策し、輝くつゆの付いた草に触れ、小川の水の冷たさを感じ、鳥の声を聞いた。
岩や小石に触れ、気に障った。
何も考えず、ただそれを感じ、違いを感じる事にした。

そして、美術館にも足繁く感じ、いろいろな作品をみた。
中には有名な作品でも何も感じないことがあるし、一般的な意見や作者の意図とはちがうことを感じる事もあった。
悲しみを表現していても自分が「楽しい」と感じるならそれでよいと言った具合だ。
「すばらしい」はずの絵画でも「つまらない」と感じるならそれでよい。

そしてそんな自分を受け入れるようにして、作品をみて自分の中でわき出る感情と「感じない」ということにも敬意を払うようにした。

そのときは誰もが無駄だとか意味が無いと思っていることだった。
中に馬鹿にしたり変わり者と考える人もいた。
しかし、そうすることで、自分がどのような人間かが少しずつ見えてきた。
逆に、馬鹿にしたり変わり者と考えている人達がいかにしばられているかということも見えてきた。
もしかしたらそのときに精神的な自由を少しだけ獲得できたのかもしれない。

もう一つは職場での不平不満を言わないと言うことも重要だった。
不平不満があるなら、それを冷静な質問にして当事者と話し合うことにした。
会社の方針に不満があるときは、社長ではなくその上の会長に直接話をしたこともあった。
(そのときは、それがきっかけで、会長のお気に入りになったがw)
これにより自分の考えをよりストレートに伝える勇気と手段をもつための訓練となった。

いまも、そのときの経験は貴重であり、まだ十分ではないと感じている。
そしてそれらの感情や考えをアート面に生かすことは完全には出来ていない。


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最近は、子供の教育についていろいろな本を読んでいるが。
自分が今一番興味を持っているのは、シュタイナー教育。
最近その分野でも有名な「子安美知子」氏が書いた「ミュンヘンの中学生」という本を読んでいた。
上記の手紙の内容と照らし合わせて考えると現代の教育の弱点が感じられた。


シュタイナーでは7歳までは文字を教えることはせず、先生が語るお話や人形劇が主体となっている。
TV・ラジオなどは(おそらく)家庭でも御法度だ。
シュタイナーの先生には、極端に言えば全メディアを否定する先生さえいる。それはCDやレコードと言った音楽媒体さえ含まれる。

小学生に上がっても、教科書もないし、宿題もない。
生徒は先生が色とりどりのチョークで黒板に書いたことを自分のノートにいろいろな色をつかって写す。そしてそれが教科書となる。

人間の精神の成長と肉体のバランスに細心の注意をはらい、音楽や舞踊、絵といった芸術を通してそれらを統合していく教育と言われている。

日本ではいいとこばかりのように紹介されているシュタイナー教育だが、その教育内容は第三者からは理解しずらい。
アカデミックな一般のものとは異なるため、海外では批判も多い。
この学校へ行ってから普通の学校へ行ったらまったく勉強が出来なくて困ったとかで基礎に発展しているケースもある。
また心ない人がヒッピー学校と呼ぶこともあるらしい。

ただ個人的にはそれらの批判は十分にシュタイナー教育を理解していない親からの物だと思っている。



さて「ミュンヘンの中学生」に書かれていることをいくつか抜粋しておきたい。


・シュタイナー教育がひとつの鉄則にしている「十四歳までは、子供の頭に、できあがった知識を注入してはならない。」

・シュタイナー教育では、頭から入ったものが心と体にき渡り、逆に手足を通じてはいったものが、頭に送り届けられる、という内的循環を重視していた。

・それもとくに幼児期では手足から頭への方向を原則とすべきであった。

・学校に上がりもしない内から、頭の中にだけとどまるような知識の記憶をしいられた子供は、その知識が生命力を満たし、意志力を強めるような触媒とはなってくれない。
むしろ、みずみずしくのびていくべき諸能力の要素を早くも硬化させてしまう方向に働く。
三歳などという子供に文字や数の計算をたたき込むのはもってのほかだが、学校へ上がってからも、やはり知識や概念は体と心を通って子供自身の中でつくられていくように仕向けなければならない。


まぁ簡単に言えば、知識をたたき込むような教育は、精神の純粋な働きを制限し、ゆがめると言うことだと解釈している。
人間の自然な成長を考慮するとこういった教育が必要と考えるなら、今現在一般的におこなわれている教育はそれを制限する方向にはたらいている。
幼児教育に見られるように、ますます知識をたたき込む教育が重視されているように思われる。

そしてそれらは、感情と考えを現実世界から切り離した人間を生み出し続けているのではないか?
知識(技術)重視のアーティストや、アーティストを志す人が思うように自己表現できないという障害を生み出しているのではないかと懸念してしまう。

そして、それを癒し、問題を解決する方法は、意外と身近にあるのではないかと思っている。
そしてそれがあの犯人のような人に早い内から適用されればこういった犯罪はもっと減るのではないかと思う。

 

2 件のコメント:

  1. いやー、すごく考えさせられました。
    素晴らしい記事をありがとうございました。

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  2. まめさん、おほめの言葉ありがとう。
    子供の教育関係の本を読んでいると、今現在の自分に使えるのではないかという内容に出会うことがよくあります。 
    「幼児教育」とは言うものの、本来は「人間」を作る教育なんでしょうね。

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